妄執の座

与太話と同人ノベルゲーム開発日誌的な文字の塊

悪夢の地平、狼の先触れ

ps4ARPG『Bloodborne』をクリアしました。大変素晴らしい作品だった、というのが率直な感想です。

この系譜の作品は、これまでに『Demon's Souls』『DARK SOULS』『DARK SOULSⅡ』の3作品をプレイしていて、どれも思い出深い体験として記憶の襞に刻み込まれいてます。

 ならばなぜ今頃になって(発売は2015年3月26日)これをプレイしたかと言うと、そもそも『Demon's Souls』をプレイしたのが発売から随分経った後だったというのもありますが、何よりこれらのゲーム、とんでもないくらいに体力と精神力、そして人間性を奪い去っていくのです。

 『Demon's Souls』と『DARK SOULS』の間は1年以上開いていますし、その後も同じく1年以上経っています。

 『Bloodborne』との間隔は約半年程と比較的短いですが、それでやはり半年は経っています。

 それだけ色々なものを消費してしまうのです。

 近頃のFROMSOFTWARE製アクションゲームと言えば高難易度で有名ですが、この『Bloodborne』もその例に違わず甚だ難しい作品となっていました。

 僕のような決して上手とは言えないプレイヤーにとっては、殆ど地獄と言えます。

 ただそれでも続けてしまうのは、そんな地獄の中にも一筋の光が確かに灯っていて、「あのアイテムを使えば行けるかも」とか「あれをこうすれば打開できるんじゃないか」というような希望が寂然と残されているのです。

 僕の場合そういったものが夢にまで出てきました。

 ですが、それを実行すると不思議なことに先に進めるということが間々あります。

 これは何でかよく分かりません。

 ただ、そんな戦略性の高さ(や天啓のようなもの)のおかげもあって、先へ先へ進むことができるのです。

 その他にも、物語や世界観が途轍もなく魅力的ということが挙げられます。

 これは僕にとって何よりもモチベーションに繋がります。

 この地で何があったのか。

 自らが繰るこの主人公の運命は何処へ向かうのか。

 それを知りたいが故に、敵に滅茶苦茶に蹂躙されて尚、自然とコントローラーに手が伸びてしまいます。

 ゲーム性については散々語られていると思いますので、今回はこの辺りに少し触れようと思います。

 とは言え物語そのものには触れません。

 物語の“見せ方”について記していきます。

 ソウルシリーズに共通することも沢山ありますが、今回は『Bloodborne』のみを視界に収めることにします。

 さて、ゲームの物語を追う時、僕たちは何を主軸にしているでしょうか。

 それは恐らく要所要所で挟まれるムービーであったり、登場人物たちの会話であったり、その辺りが主だと思います。

ですが、『Bloodborne』にはそれらが殆どありません。

 タイトル画面からゲームをスタートすると、1,2分程の簡単な(本当に簡単な!)ムービーが流れ、その世界に放り出されます。

 やがて最初の死が訪れ、再度簡単なムービーが流れ拠点となる地に転送されます。

 しかし、ここでもNPCは殆ど何も語らず何かを仄めかすようなことを二言三言述べるのみです。

 そしてこの先もこれが延々と続くのです。

 最初のボスもムービーはなんてものは当然のように存在せず、突然襲い掛かられます。

 倒した後も何もありません。

 ただ一つアイテムを残して消えてしまいます。

 ならば最後はどうかというと、これはルートによって変わってきますが、僕の到達したエンディングでは、ラスボスの始まりと終わりに簡素なムービーが流れ、エンディングロールが始まり、そして最後の最後に約30秒程の映像と共に登場人物が一言ボソッと喋って終わります。

 その後はタイトル画面に戻ることもなく2週目が始まります。

 勿論そこで何かが語られるということはありません。

 ただ単に敵が異常に強くなった世界に再度放り出されるというだけです。

 これだけ聞くと物語なんて無いじゃないかと思うかもしれません。

 では、どうやって物語を構築しているのか。

 その答えは、アイテムにあります。

 世界に散らばる、またはボスが持っているアイテムには使い道や効果と共にフレーバーテキストが記されています。

 難解なことが書かれている場合もありますが、これらが世界の姿や物語を読み解く大きな鍵になります。

 例として一つ引用してみます。

 

 

 

彼方への呼びかけ

 
医療教会上層「聖歌隊」の秘儀の1つ

 かつて医療教会は、精霊を媒介に高次元暗黒に接触し遥か彼方の星界への交信を試み、しかし全てが徒労に終わった

 すなわちこれは失敗作だが、儀式は星の小爆発を共ない「聖歌隊」の特別な力となった。まこと失敗は成功の母である

 

 

 

と、このようなテキストが無数に存在します。

つまり性質上、これらを読まなければ殆ど何一つ解らないままエンディングを迎えてしまうわけです。

 これが良いか悪いかは意見が分かれるところだと思いますが、ただ何も解らなければよすがとなる何かを見出そうとするのが多くの人の感性ではないでしょうか。

 ならば物語への関わりをプレイヤーに委ねるこの方法は、殆ど何も説明しないからこそ有効になってくるのです。

 本能的な感性に突き動かされながら得る、自ら物語を読み解いたという達成感。

 そんな受動的な能動こそがこの“見せ方”の根幹であり、ゲームシステムも然る事ながら人気を博している要因の一つなのだと思います。

 事実、僕自身もこれらのゲームをプレイしているとき、信じられない程の興奮に飲み込まれています。

 本筋では何も語らないというこの手法をテキスト主体のノベルゲームに応用することは困難かもしれませんが、構造や精神を巧く取り入れた作品ができたら面白いかなあ、なんてことも長らく思っています。

 いつかできたらいいですね。

 さて話が長くなりましたが、来る2019年3月22日、遂にFROMSOFTWAREの最新作『SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE』が発売されます。

 僕はまだ『DARK SOULⅢ』をプレイしていませんので、こちらをプレイするのは随分先になってしまうかもしれませんが、非常に楽しみな作品です。

 皆さんもこれらの作品をぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。

 精神衛生上の代償はあまりにも鴻大かもしれませんが、きっと何か感じるものがある筈だと僕は確信しています。

 

恐怖の大王

はじめまして。「憑霊」代表のリラです。

ブログを開設しました。

果たして書くようなことがあるのかどうか、それすらも杳として知れないのだけど、数々の先達に倣い取り敢えず開設してみました。

それはそれとして、僕は誰かに何かを伝えることがこの上なく苦手です。人に自分の何かを見せる、ということが堪らなく恐ろしいのです。
思い返せば、小学生のときから先生に課題のプリントを見せるのが嫌でした。回答済みならまだいいのだけど、途中のものを見られるのは本当に嫌で、見回りの先生が近くに来ると腕を翳して徐に紙面を隠していたことを記憶しています。それは恐らく稚拙だと思われることが、この程度もできないのかと見下されてしまうことが心の奥底で怖かったのだと思います。当然先生方はそんなこと思っていなかったでしょうから被害妄想も甚だしい話です。ただ、そういう精神を僕はここに至るまでずっと引きずっていたのです。
じゃあなんでそんな人間が同人ゲームサークルなんか立ち上たんだよ、と死ぬほど尻をシバかれそうですが、こんな僕にでも紡ぎたい物語があるのです。表現したい世界があるのです。そしてそれらは今、行く宛を持たぬまま亡霊のように僕の目の前を彷徨っています。けれど、それではその子たちがあまりにも不憫ではないですか。だから作ろうと思ったのです。
勿論それは稚拙なものかもしれませんし、鼻で笑われてしまうような代物かもしれません。だけどきっとそれでもいいのだと思います。僕はここ何年かで、ようやくそう思えるようになりました。人に何かを見てもらうのはきっと恐ろしいことではないのです。
とはいえ僕にとってはやっぱり怖いことなので結局は恐る恐るになってしまうと思うけれど、何とかその恐怖に抗って自分の中にある何かを、行き場をなくした亡霊たちを、この呪縛からゆっくりと開放してあげようと思います。

どうぞよろしくお願いします。